サブカテゴリ[SC02 近現代の日本の社員教育文化]
(サブカテ記事№07)
経営幹部や、その直下管理職も、「企業の未来をつくる=組織の次代を担う人を育てる」という本来の役割意識を後退、或いは忘却しかけている昨今です。
「そんなことはない」と反論されるかたもお見えかも知れませんが、その結果として現れてきている「教育の“質”の変化」に心当たりはありませんか?
人材(人財)育成に対する明確なビジョンが存在しないまま、教育が実施されるとき、そこでは往々にして、知識やスキルの伝達が中心となっていくのです。
もちろん、"知識やスキルの教育"それ自体が悪いわけではありません。技術革新が目覚ましく、社会情勢の変化が激しい今、それは必要でしょう。
しかし、そうした偏向教育は、本来の日本企業の社員教育が担っていた・・・
・仕事観と人生観の融合とそれに共感するチーム作り
・人的、動的な判断基準の形成とブラッシュアップ
・組織としての一体感の醸成
・・・といった要素を、徐々に薄れさせてきていきます。
語弊を恐れずにひと言で表現するなら、「社員教育における哲学の喪失」です。
その哲学が明確に存在していた時代、日本の企業や、日本の産業は、数々のクールジャパンを生み出し、世界を驚嘆させていました。このままでは「クールではなくなる」程度で済まされません。日本という国そのものの価値棄損が顕著になるでしょう。
既にビジネスの最前線では、じわじわと、そして着実にそれが現れてきているようです。
日本の若者のストレス耐性が弱まり、公共性や社会貢献の意志も脆弱化しつつあるなら、一方では、ストレス耐性が強く、家族思いで、ガッツのある外国人労働者の、日本企業における価値がどんどんと高まってきているのです。
私は40年以上、企業の採用、人事、教育の最前線で仕事をしてきていますが、昔と今とでは、パワハラやそのグレー領域での「する方・される方」の割合が、日本人対外国人の間で、着実に変化してきているようです。
「日本に憧れ、日本人に憧れて、日本での自立に命がけで海を越えてきた」人たちが、労働現場最前線において「日本人は大したことない」と思い始めているのです。
明るく、元気、前向きでコミュニケーション良好な外国人のリーダーや店長、マネジャーの下で、妙に冷めた、陰気で辛抱のない日本の若者が使われ、低評価され、そのことを受け入れてしまっているケースも珍しくなくなってきています。
ナショナリズムを煽っているわけではありません。もちろん、外国人排斥を訴えているわけでもありません。
せっかく、私たちに憧れてやってきて頂いているのに、幻滅させてどうするのかと申し上げたいし、結果として労働市場における純粋な日本人の就労価値が下がれば、低迷する新卒採用&戦力化が続く中、キャリアとしての外国人登用が加速していくでしょうし、そうなると、安穏と自由を謳歌し、楽をしていた若い日本人たちが、ナショナリズムを隠れ蓑に、外国人排斥を訴え始めるかも知れません。
閑話休題。
ここで改めて問うべきは、「誰が人を育てるのか」という根本的な問題です。
もちろん[0:100]ではありません。どちらが"主"かという問題です。
やり方・知識が人を育てるのか。
立場・関係が人を育てるのか。
制度・仕組みが人を育てるのか。
体験・葛藤が人を育てるのか。
この問いに対する答えが曖昧なままでは、どれほど教育体系を整備しても、その実効性には限界があります。
社員教育の質は、制度の精緻さだけで決まるものではありません。それを担う人々の意志と姿勢によって、大きく左右されます。
では、このように哲学を失った社員教育の現場では、具体的にどのような現象が起こってくるのでしょうか。
近年、その象徴の一つとして、ある種の“流行病”のように広がってきた教育テーマがあります。
次回は、その代表例とも言える「コーチング」を取り上げ、手段が目的化していく現代の社員教育の危うさを考えてみたいと思います。
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