サブカテゴリ[SC02 近現代の日本の社員教育文化]
(サブカテ記事№06)
前回[02-05]、現代の社員教育において、「小粒化」と「形骸化」が進行していることを指摘申し上げました。
では、その背景には何があるのでしょうか。
要因はいくつか考えられますが、その中でも、見落としてはならないのが、教育の“担い手”そのものの変質でしょう。
まず、企業経営を担う層の変化です。
企業の成長とともに、創業者から次世代へと経営が引き継がれていくことは、ごく自然な流れです。しかし、その過程で、経営幹部個々の、そして暗黙の相違としての経営のあり方は徐々に変質していきます。
創業期においては、経営者その人を含めて、経営幹部らは自らの責任において意思決定を行い、リスクを引き受けながら組織を牽引していきます。そのような環境においては、企業の理念や価値観は、単なる言葉ではなく、実践を通じて体現されるものでした。
一方で、組織が安定し、経営が継続的に行われるようになると、意思決定は集団的なものへと移行していきます。これは合理的である反面、個々の責任の所在が曖昧になりやすく、結果として、大きな挑戦も、大きな失敗も生まれにくい構造が形成されるようになります。
そして安定を好まない人はいません。安定の中で経営幹部の仲間入りを果たした人々は、安定こそが企業目的であるかのように錯覚し、結果、そうした人々のなかで目的や理念が変質していくのです。
そのような環境下、経営幹部らは、必ずしも「企業を背負う」という感覚を強く持たなくなっていきます。「みんなで決めて、波風立たない安定が維持されているんだから、それでいいでしょう?」といった感覚です。そうした経営幹部は、冗談や謙遜ではなく、本気で自らの抜擢(経営幹部成り)を「順番だから」と語ったりします。
その方が、自分が気負いなく、次のステップアップ世界(経営幹部界)に入っていけるからでしょうか。それともステップアップ世界の先住民たちから、いじめられないように「出ない釘」を演出しているのでしょうか。打たれないように「サラリーマン化」し、気概が薄れた経営幹部が増えてきている印象を、私自身、かなり強く抱いています。
こうした傾向は、大企業であればある程、顕著であるように思われまが、中小企業であっても「老舗企業が左前になっていく」ケースでよく見かけます。
さて、創業当時の経営層の意識と比べて、このような変化は、社員教育の観点で、どのような影響を及ぼすのでしょうか。
本来、社員教育とは、企業の未来を形づくる営みです。「(次代を担って貰うために)どのような人材(人財)を育てたいのか」・・・その問いに対する答えは、経営そのものの意思である筈です。
しかし、経営の中にその意思が明確に存在しなくなれば、明らかに社員教育は方向性を失います。経営は経営層(経営者を含めた経営幹部)が担うわけですから、経営幹部の意識低下が起こってきている以上、経営そのものにもそれが疑われて然るべきなのです。
会社として理念は掲げられていても、それが営業トークや、採用トークに使われても、実践として語られることは少なくなり、教育は次第に、制度としての整合性や運用の効率性に重きが置かれるようになってきています。未来をつくるための教育ではなく、教育のための教育になっていくのです。
さらに、この傾向は中間層にも波及します。
課長や係長といった管理職・準管理職層は、本来、現場と経営をつなぐ重要な役割を担っています。
しかし、上位層の意志("意思"ではありません)が曖昧な状態では、彼らもまた、自らの役割を「与えられた表面的な職務の遂行」に限定するようになります。
結果として・・・
・予算を守ること
・工数を管理、低減をすること
・波風を立てないこと
・・・こうした行動が優先され、当該階層の昇級・昇格基準が、単にそれらの範囲の広がりの違いといった塩梅になってくると、昔は「指導者」として仰ぎ見られ始める「管理職」も、職務分掌規程と職務権限規程に照らした「管理者」といった風合いになってきてしまいます。レベルダウンです。
そして、単なる範囲の違いであるなら、広げようという意識ではなく、現状維持をしようという意識に変化していきます。美しく語るなら「立場を全うしよう」ということになりましょうか。
経営幹部も、その直下管理職も、「企業の未来をつくる=組織の次代を担う人を育てる」という本来の役割意識を後退、或いは忘却していっているように思えます。
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